
柴田 是真Zeshin Shibata

柴田 是真(1807〜1891)
柴田是真は江戸時代末から明治中期にかけて活動した漆工家、日本画家です。
幼名亀太郎、名は順蔵、字は蜆ヱR、号は是真、令哉、対柳居、沈柳亭など。日本の漆工分野において、近世から近代への橋渡しする役割を果たした工人であります。
蒔絵や漆絵では、青海勘七以来絶えていた青海波塗を復活し、青銅塗・四分一塗・鉄錆塗・砂張塗・紫檀塗・墨形塗などの新技法を創始する。また、独特の作風で、内国勧業博覧会などに出品したり、博覧会の審査員をつとめたりして、明治漆工界に貢献しました。
江戸っ子気質だったらしく、東京府知事楠本正隆の仕事依頼を、「自分は公方様(徳川幕府)の時代に人になった者であるからお断りする」、と言ってなかなか引き受けなかったという逸話があります。
柴田是真の作品の数々は「蒔絵博物館」において見ることができます。
柴田是真の古書日本画・掛軸買取は古美術八光堂にお任せください。全国どこへでも出張買取いたします。
柴田 是真 年表
- 1807年
- 越後出身の宮彫師の子で、袋物(煙草入・紙入・印籠など)商に婿養子となった柴田市五郎の子として、江戸両国橘町に生まれる。
- 1818年
- 職人気質を重んじ精巧な細工に特色を示す古満寛哉に蒔絵を学ぶ。
- 1823年
- 画工の図案に頼らず仕事をするため、鈴木南嶺に四条派の絵を学んだ。
- 1827年
- 当時売り出し中の浮世絵師歌川国芳が、是真の扇絵に感動し弟子入りしようとしたが、是真は初め固辞するが弟子とし、国芳に「仙真」の号を与えたという逸話が残る。
- 1830年
- 南嶺の紹介で、四条派の本場京都画壇の俊英である岡本豊彦の弟子となる。
- 1841年
- 東北各地を巡った。
- 1850年
- 最初の妻すまとの間に長男亀太郎(号 令哉)が生まれる。
- 1854年
- 母ますが68歳で病死。
- 1863年
- 歌子も亡くなってしまう。
- 1873年
- ウィーン万国博覧会に「富士田子浦蒔絵額面」を出品して進歩賞牌を受賞する。
- 1874年
- 三男順三郎(梅沢隆真)が生まれる。
- 1886年
- 皇居の杉戸絵を描いた。
- 1890年
- 帝室技芸員になる。
- 1891年
- 歿し、浅草今戸の称福寺に葬られ、「弘道院釈是真居士」と諡された。
柴田 是真 代表作
- 「鬼女図額面」 (1840年) 王子稲荷神社所蔵
- 「富士田子浦蒔絵額」 (1872年) 福富太郎コレクション資料室所蔵
- 「浅草海苔製造図額面」 (1883年) 諏訪大社上社所蔵
- 「大花瓶色漆絵額面」 (1881年) 板橋区立美術館所蔵
- 「瀑布図屏風」 (年) 静嘉堂文庫美術館所蔵
- 「四季花鳥図屏風」 (年) 東京国立博物館所蔵
- 「漆絵」 (年) 蒔絵博物館所蔵
- 「富士田子浦蒔絵額」 (1872年) 福富太郎コレクション資料室所蔵

柴田 是真「漆絵」(年)











