
荻原 守衛 Morie Ogiwara

荻原 守衛(1879~1910)
(写真は「国立国会図書館」様より引用)
荻原守衛は12月1日、長野県南安曇郡東穂高村矢原の農家荻原勘六・りょうの五男に生まれた彫刻家で、本名守衛です。
14歳、東穂高高等小学校を卒業、家業を手伝い、18歳のとき、相馬良(黒光)の家で初めて油絵「亀戸風景」(長尾杢太郎作)を見ました。19歳、機業家になろうとして出奔し、桐生方面へ向ったが、上田から連れ戻されます。11月研成義塾が創立され、守衛も参加して盛んに読書します。
井口喜源らと上京し、巌本善治を訪問し、植村正久らの説教を聞きます。画家になろうと志し10月厳本善治氏を頼って上京しました。明治女学校の校地内に住み。画塾不同舎に入り、小山正太郎に学びます。21歳の春、明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付けます。7月井口喜源上京、共に内村鑑三の夏期講談会に出席、終了後、井口喜源と共に富士登山をし、一時帰省しました。
明治34年、渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行します。9月、フェアチャイルド家の学僕となります。アート・スチューデンツ・リーグに入学しました。孤独と郷愁に悩み、チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学びます。戸張狐雁を知り、この頃、ウォルター・パッチを知りました。
明治40年1月4日、五来のはからいでパリ郊外に移ります。PAUL-LOUSI COUCHOUD が1月16日付の紹介状で、守衛がロダンに面会できるように仲介しています。7月、静養のためロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをします。
パリに戻り、ウォルター・パッチとロダンを訪ねます。ジュリアンの校内コンクールでたびたび受賞し、「女の胴」「坑夫」などを制作しました。ブールデルに会い、帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシャ、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見ました。
明治43年「銀盤」「女」を制作しました。柳敬助の画室を設計監督し、4月20日の夜、新宿中村屋で吐血、22日朝満30歳5ヶ月で永眠しました。 生家の墓地に埋葬され、第四回文展に「女」が出品され、文部省に買上げられます。ロンドンで開かれた日英博覧会に「銅像」(宮内氏像)が出品されます。
荻原守衛の作品の数々は長野県安曇野市にある「碌山美術館」において見ることができます。
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荻原 守衛 年表
- 1879年
- 長野県安曇野市に生まれる。
- 1884年
- 相馬愛蔵と知り合う。
- 1901年
- アメリカに渡り絵画を学ぶ。
- 1902年
- ロパート・ヘンリーに学ぶ、戸張孤雁を知る。
- 1903年
- フランスに渡る。
- 1904年
- ロダンの「考える人」を見て彫刻を志す。アメリカに戻る。
- 1906年
- 高村光太郎がニューヨークに来る。柳敬助と光太郎を訪ねる。再度渡仏。アカデミー・ジュリアン彫刻部で学ぶ。五来欣造・斉藤与里・本多功らと親しくなる。「碌山」の号を用いはじめる。
- 1907年
- フランスでロダンに面会。「女の胴」「坑夫」などの彫刻を制作。
- 1908年
- 帰国、第二回文展「文覚」入選。
- 1909年
- 第三回文展「北条虎吉像」「労働者」出品。
- 1910年
- 「銀盤」「女」を制作。4月22日急逝。第四回文展に「女」が出品文部省により買上げ。
荻原 守衛 代表作
- 「トルソー」 (1907年) 東京藝術大学大学美術館所蔵
- 「坑夫」 (1907年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「女の胴」 (1908年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「文覚」 (1908年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「デスペア」 (1909年) 碌山美術館所蔵
- 「ジョージ」 (1910年) 碌山美術館所蔵
- 「女」 (1910年) 重要文化財、東京国立博物館所蔵
- 「北条虎吉像」 (年) 重要文化財、東京国立博物館所蔵

荻原 守衛「女」(1910年)













