
新海 竹太郎 Taketaro Sinkai

新海 竹太郎(1868~1927)
新海竹太郎は山形十日町生れた彫刻家です。仏師新海宗松の長男です。
細谷風翁・米山の門に入り、漢学・書画を学び、19才で上京、陸軍士官学校をめざして小学校補助教員などして苦学したが入試に失敗、近衛騎兵大隊に入営します。
満期除隊後、後藤貞行の門に入り彫刻を学び、東京美術学校で楠公騎馬銅像の原型作製の時、人体は高村光雲作、馬体は後藤貞行が製作し、竹太郎は貞行の助手として馬体原型を作りました。
明治27年、第9回彫刻競技会に木彫「闘馬」を出品して銅賞を受けたが、同年9月日清戦争に召集され台湾に出征します。明治31年岡倉天心、橋本雅邦等と日本美術院を創立、その正会員となります。32年、政府の命により北白川宮能久親王の騎馬銅像を作りました。
新しい彫刻を模索していた竹太郎は33年フランスに渡り、次いでベルリン美術学校に学び、大作彫塑構造の研究をし、35年帰国し、太平彫刻会に彫刻部を創設して、西洋彫刻の道を拓き、明治40年、文部省美術展覧会(文展)が創設されるとその審査委員となり、「ゆあみ」を出品しました。
女性等身大の裸体像で、当時は風俗をみだすとの理由で公開が禁止されそうになり、美術家の反対によって、辛うじて腰部に布を巻いて陳列したという挿話もあります。
翌年、一層純粋な女性二人の全裸像「ふたり」を出品して問題が大きくなり、ついに一般公開を禁止し特別室に陳列しました。同時に出品された「羅漢」も、従来の仏像彫刻の殻を破ったものとして論議を呼びました。
以後文展作家として多くの作品を世に出し、大正6年帝室技芸員、大正8年帝国美術院会員、11年に正五位、13年に勲六等、14年に勲五等に昇叙され、日本彫刻界の元老として重きを成しました。昭和元年、伊藤博文の胸像を作ったのが最後で、病に倒れ翌年東京帝大附属病院にて死去しました。
新海竹太郎の作品の数々は兵庫県豊岡市出石町にある「東京藝術大学大学美術館」において見ることができます。
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新海 竹太郎 年表
- 1894年
- 第9回彫刻競技会に木彫「闘馬」 出品 銅賞。
- 1898年
- 岡倉天心・橋本雅邦等と日本美術院 創立 正会員。
- 1899年
- 軍の依頼により北白川宮能久親王騎馬銅像 製作。彫刻家としての第一歩を示す。
- 1900年
- 渡欧 ベルリン美術学校彫刻部主任教授ヘルテルに師事、当時のドイツのアカデミックな彫刻技法を身につける。
- 1902年
- 帰国。中村不折らによって創設された太平彫刻会の会員となり、以後同会の中心的な存在として活躍する。
- 1904年
- 同会研究所 彫刻部主任 朝倉文夫・中原悌二郎・堀進二など多くの後進を育てた。
- 1907年
- 文部省美術展覧会創設 審査委員「ゆあみ」出品。
- 1908年
- 文部省美術展覧会「ふたり」出品。
- 1917年
- 帝室技芸員。
- 1919年
- 帝国美術院会員。
- 1922年
- 正五位。
- 1924年
- 勲六等。
- 1925年
- 勲五等に昇叙。
- 1926年
- 伊藤博文の胸像を作ったのを最後で病に倒れる。
- 1927年
- 死去。
新海 竹太郎 代表作
- 「少女像」 (1902年) 東京藝術大学大学美術館所蔵
- 「ゆあみ」 (1907年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「斥候」 (1910年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「価千金」 (1913年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「少女像」 (1914年) 東京藝術大学大学美術館所蔵
- 「老馬」 (1921年) 東京藝術大学大学美術館所蔵
- 「老子」 (1926年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「裸女」 (1932年) 東京藝術大学大学美術館所蔵
- 「歩哨」 (年) 東京藝術大学大学美術館所蔵
- 「唱歌」 (年) 東京藝術大学大学美術館所蔵

新海 竹太郎「ゆあみ」(1907年)













