
横山 操 Misao Yokoyama

横山 操(1920〜1973)
(写真は「テレビ東京」様より引用)
横山操は大正9年、新潟県西蒲原郡吉田町で生また日本画家です。この蒲原平野にある吉田町はかつて米の集積地として賑わった町。横山はこの町の医者の家から養子となり、複雑な幼年期を過ごしましたが、子供の頃から天才画家と呼ばれていました。
14歳で上京、働きながら絵を学びました。しかし、20代は中国戦線での兵隊生活、ソ連の捕虜収容所での過酷な労働など、戦争で全てを奪われました。
帰国時、横山は30歳になっていました。失われた10年、彼はその過去を語ることは殆どありませんでした。
昭和26年春に結婚、翌年長女が誕生しました。長い間、絵が売れなかったため、ネオン会社もデザインの仕事も続けていました。横山には絹の画布も、高価な墨も、買うことが出来ませんでした
日本画の心、水墨の世界であります。
昭和46年、51歳の横山は病に倒れ右半身不随となってしまいます。利かなくなった右手、右足の訓練と同時に左手で文字を書く練習をします。三ヶ月程で、どうしても絵が描きたいからと無理に退院し、利き腕の自由を失った画家は、探るように絵を描き始めました。
戦後という時代に、奇跡のような画家は生まれ、紙の上という戦場で高らかな叫びを天地に震わせた。今も彼の黒は、哭いています。
同じく昭和期に活躍した加山又造とは懇意であり、荒々しく力強い横山と対照的に、静謐な線による構図や伝統的な花鳥風月などを取り入れ、日本画の王道を歩んだともいえる加山であるが、お互いを認め合いライバルとして日本画壇をリードしてきた。
横山操の作品の数々は東京都にある「東京国立近代美術館」において見ることができます。
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横山 操 年表
- 1920年
- 新潟県西蒲原郡吉田町に生まれ。横山家に養子に出される。
- 1934年
- 日本画家を志し上京、日本画家の弟子となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら日本画を学ぶ。
- 1938年
- 第25回光風会展に油彩画『街裏』入選。その後、師の勧めにより日本画に転向する。
- 1939年
- 川端画学校日本画部 夜間部に入学。
- 1940年
- 青龍社(川端龍子が中心的人物の会)主催 第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。その後応召、中国大陸各地を転戦する。
- 1945年
- シベリア抑留に遭う。
- 1950年
- 復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開。第22回青龍社展に「カラガンダの印象」を出品する。
- 1951年
- 杉田基子と結婚。
- 1956年
- 初の個展を銀座で開催。第28回青龍社展『炎炎桜青龍賞を受賞。
- 1957年
- 第29回青龍社展「塔」出品 奨励賞受賞。
- 1960年
- 『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる。
- 1961年
- 第2回轟会展「富士雷鳴」出品。
- 1962年
- 第34回青龍社展「十勝岳」出品。作品が大きすぎるという理由で縮小を求められ青龍社を脱退。
- 1963年
- 「瀟湘八景」などを横山操屏風絵展 出品。
- 1965年
- 多摩美術大学日本画科教授就任。多くの日本画家を育てる。
- 1968年
- 越路十景展(彩壺堂画廊)。
- 1971年
- 脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた。
- 1973年
- 4月1日‐新作の製作途中に没(享年53)。
横山 操 代表作
- 「カザフスタンの女」 (1951年)
- 「塔」 (1857年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「踏切」 (1957年)< 神奈川県立近代美術館所蔵/dt>
- 「富士雷鳴」 (1961年)
- 「ウォール街」 (1962年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「万里の長城」 (1966年) 東京国立近代美術館所蔵
- 「波涛」 (1960年) 神奈川県立近代美術館所蔵
- 「グランドキャニオン」 (1961年) 新潟市美術館所蔵

横山 操「ウォール街」(1962年)











